アスリートは子ども達に夢を与えるためにプレーしているのか?

北京オリンピックを見ていて気になることがある。

たとえば、昨夜のなでしこ女子サッカー代表、今日の女子バレーボール日本代表の中継中。
アナウンサーは、まだ試合が終わってもいないのに、もう負けました的な実況にトーンを切り替えていた。
そして、子ども達に夢を与えるためにもがんばって欲しいとか、負けそうだけど子ども達に夢を与えてくれたとかいうニュアンスのセリフ。

考えてみて欲しい。
なでしこたちも女子バレーの代表選手達も、小さな子どものころ、誰からか夢を与えられた存在のはず。
そして何年も必死に努力してやっとたどり着いた、おそらくは人生最大の舞台、与えられた夢をまさに実現しているその最高の舞台で、まだ懸命に戦っているその試合中なのに、「子ども達に夢を与えてくれました」はないだろう。
彼女らは今まさに夢のただなかで人生のすべてをかけてプレーしているのだ。自分の夢のただなかで。

どうしても言いたければ、その夢の時間が終わった後に「あなた達のプレーは、きっと子ども達に夢を与えてくれたと思います」ではないのか。