高校演劇ではなぜ既成脚本の上演に上演許可を要求するのか?

その1とかその2とかややこしいので、タイトルを毎回変えてみます。


さっそく、本題に入ります。
もう一度確認します。著作権法第38条1項は、次の通りです。

公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。


一方、全国高等学校演劇協議会規約の細則では、

3 全国大会の上演基準について
4) 既成脚本を使用する場合及び既成脚本を脚色、潤色、翻案、構成した上で上演する場合は、必ず著作権者の上演許可を得ていることを上演の条件とする。
*1

と書いてあるのです。


つまり、法律=著作権法は、営利を目的としない上演については無許諾・無報酬を認めているのに、全国高等学校演劇協議会は細則中の上演基準でこれを加盟校に許さないのです。
ちなみに、全国協議会の基準は関東大会とか県大会の参加基準にそのまま取り入れられています。


なぜこのようなことになっているのか調べてみました。
全国高等学校演劇協議会の発行している「演劇創造」(109号)がむっちゃ重要でした。
*2


そこには、全国高等学校演劇協議会副事務局長の森本繁樹氏の名による「緊急アピール 著作権問題再び」題する文章が掲載されています。

それによると

一九九七年、全国大会上演校の著作権に係る重大な問題が起きた。調査の結果、著作権侵害のあったことが確認され、
(中略)
所轄官庁である文化庁から非常に厳しい指導を受け、加盟校への周知を図るために、一九九七年十月六日付け高演協二八号文書、故相澤一好前会長名の通達(本紙に再掲)を行った。
(中略)
また、著作権についての明確な指針が必要であるとの指摘により、一九九九年七月の理事会において、「全国高等学校演劇大会上演作品の創作・既成等の区別について」(本紙再掲)を承認していただき、二度と著作権侵害が起きないように、全加盟校で努めてきたはずであった。
(中略)
二〇〇四年の第四六回九州高等学校演劇研究大会で上演された、宮崎県立妻高校作「母への贈り物」(向田邦子著『きんぎょの夢』(文春文庫、文芸春秋)より)は、地区大会・県大会・ブロック大会ともに、上演脚本を著作権者に送付して上演許可を得たことが確認できず、出版社である文芸春秋社からの上演許可の条件である「本著作物の内容、表現、題名等を事前の許可なく変更してはならない」との項目にも違反していることが明らかとなった。

という事実があったそうです。


そして、森本氏は続けてこう書いています。

全国高演協の規約は、現行の著作権法と比較すると、より厳しい制約を課したものである。我々は教育現場で作品を創っているのであり、生徒にも、著作者が汗を流し、命を削って創り出したものを上演させていただく、というモラルを徹底する必要があるとの思いから決められた規約である。


おそらく私の疑問のかなり重要な部分が1つ解けました。
問題の発生を受けて全国高等学校演劇協議会が対策を検討するなかで、モラルの問題が登場したのです。
そこでは、著作権法上の純粋に法律的な問題が発生しているのに、その解決のために法令遵守を説くのではなく、「著作者が汗を流し、命を削って創り出したものを上演させていただく、というモラル」を持ってくるという、誤った対応をしているのです。そのことをこの文章は明確に示しているのです。


ここまでくれば、既成脚本の上演に必ず上演許可を要求する論理まではあとわずかです。
モラルの問題と考えてしまったところから「全国高演協の規約は、現行の著作権法と比較すると、より厳しい制約」を自ら課すことにするという、よくわからない論理が出てきたのでしょう。


とりあえず、今日はここまでにします。
わかってスッキリしたというよりは、「モラルを説く人たちに法律論の重要性を理解してもらうのは難しいだろうなあ」という、絶望感が強いんですが・・・(注:この1文は2008年8月28日に修正しました)。
次回は、「全国高等学校演劇大会上演作品の創作・既成等の区別について」の問題を検討したいと思います。