ある劇作家からのコメントへの返答(その3)―戯曲の著作者が有する同一性保持権とはどのようなものか?―


こんにちは。


今日も劇作家のOさんからいただいたコメントに対するお返事です。*1
自分でもちょっとしつこいと思っていますので、Oさんへのお返事は、さしあたり、今日で最後にしたいと思っています。


例によって、最初に、今日初めてこのサイトを読む方のために、論点を簡単に確認しておきます。

私は、著作権法第38条第1項*2の規定により、既成の戯曲を上演する場合には、非営利・無料・無報酬の条件を満たせば、原則として、権利者に無許諾・無料での上演が認められるはずだと考えています。
っていうか、普通はそう考えると思うのです。

ただし、著作権法第50条は「この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない」と定めているので、38条1項により無許諾・無料での上演が認められる場合でも、同一性保持権*3が保障されます。
ですから、私は、この点をどう考えるかについては法律解釈上の課題があることも認めています。


これに対して、Oさんは、私のエントリーへのコメントで反論を寄せられました。
Oさんの主張は、おおよそつぎのようなものです。

著作権法第50条は「この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない」と定めている。
このため、38条1項により無許諾・無料での上演が認められる場合でも、同一性保持権が保障される。
他方、Oさんによれば、「厳密に言うと、ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点にいたるまで、原作通りやることは不可能」なので、戯曲の上演には必ず同一性保持権の問題が生じる。
よって、既成の戯曲を上演する場合には、たとえ非営利・無料・無報酬の条件を満たしていたとしても、必ず著作者に戯曲の改変の許諾を得なければならない、と。


では、本題に入りましょう。
今日はまず、著作権法の改正について、事実関係の確認をしておきたいと思います。
些細なことにも思えるのですが、しかし、間違いなくOさんのコメントには誤解が含まれています。


Oさんは、2011年1月2日にいただいたコメントで「無料上演には作者の許諾がいらないというのはごく最近改正されたもの」とされ、また、2011年6月17日のコメントでは、「著作権法は平成十年代にあいついで改変され今日に至っております」とも書かれています。


しかし、現行の著作権法の第38条は、旧著作権法の第30条第1項第7号を引き継いだもので、この条文が新設されたのは、昭和9(1934)年改正です。*4
思うに、すごく昔です。
絶対に最近じゃないです。


著作権法の条文を引用しておきます。

第30条 既に発行したる著作物を左の方法に依り複製するは偽作と看做さず


(中略)


第7 脚本又は楽譜を収益を目的とせず且出演者が報酬を受けざる興行の用に供し又は其の興行を放送すること*5


さらに言えば、現行の著作権法が昭和45年に制定されて以来、著作権法第38条第1項が改正されたのは、つぎの3回だけです。


昭和59年改正

第38条第1項中「提示」を「提供又は提示」に、「次項」を「以下この条」に、「行なう」を「行う」に改め、同条に次の二項を加える。*6


昭和61年改正

第38条第1項中「若しくは上映し、又は有線放送する」を「又は上映する」に、「、上映又は有線放送」を「又は上映」に改め、同条中第4項を第5項とし、第3項を第4項とし、第2項を第3項とし、第1項の次に次の一項を加える。*7


平成11年改正

第38条第1項中「口述し、又は上映する」を「上映し、又は口述する」に、「口述又は上映」を「上映又は口述」に改める。*8

以上です。
ご覧の通り、いずれも、Oさんの主張とはまったく無関係な改正です。


つぎに、著作権法第20条についても見てみましょう。
この条文は旧著作権法第18条にさかのぼることができます。
旧法の条文を引用します。

第18条 他人の著作物を発行又は興行する場合に於ては著作者の生存中は著作者が現に其の著作権を有すると否とに拘らず其の同意なくして著作者の氏名称号を変更若は隠匿し又は其の著作物に改竄其の他の変更を加え若は其の題号を改むることを得ず
他人の著作物を発行又は興行する場合に於ては著作者の死後は著作権の消滅したる後と雖も其の著作物に改竄其の他の変更を加えて著作者の意を害し又は其の題号を改め若は著作者の氏名称号を変更若は隠匿することを得ず
前二項の規定は第20条、第20条の2、第22条の5第2項、第27条第1項第2項、第30条第1項第2号乃至第9号の場合に於ても之を適用す*9

お気づきの通り、この条文の第3項は、現行の著作権法第50条と似た内容で、ここにみられる著作権と同一性保持権の関係は、現行法の構造にも通じるように思われます。


また、現行の著作権法が昭和45年に制定されて以来、著作権法第20条が改正されたのは、つぎの2回だけです。


昭和60年改正

第20条第2項第3号中「前二号」を「前三号」に改め、同号を同項第4号とし、同項第2号の次に次の一号を加える。

 3 特定の電子計算機においては利用し得ないプログラムの著作物を当該電子計算機において利用し得るようにするため、又はプログラムの著作物を電子計算機においてより効果的に利用し得るようにするために必要な改変*10


平成15年改正

第20条第2項第1号中「を含む。)」の下に「、第33条の2第1項」を加える。*11

これらもまた、Oさんの主張とはまったく関係がありません。


よって、Oさんが、「無料上演には作者の許諾がいらないというのはごく最近改正されたもの」だとか、「著作権法は平成十年代にあいついで改変され今日に至っております」だとか言われることは、Oさんの主張にとって何の意味もないことなのです。
Oさんは、何か誤解されていると思いますので確認させてもらいました。


つぎに、今日の2つめの課題に入りたいと思います。
なお、今日のメインテーマはここからです。


Oさんは、コメントの中で、おおよそつぎのように主張されます(だいぶ端折ってますが、ご容赦ください)。
著作権法第38条第1項が著作者に無許諾での上演を認めていたとしても、同時に、著作権法第20条に「著作者に無断で、著作物に改変をくわえてはならない」ということが書かれている。
しかし、(Oさんに言わせると)そもそも「戯曲は、原作通りに演ることは不可能」なので、これらは「法律そのものの矛盾」なのだと。


この主張に対し、私はこれまでの2回のエントリーで、つぎのように指摘しました。
すなわち、Oさんの主張は、財産権としての著作権についての権利制限規定(38条1項)の適用を免れるために、同一性保持権侵害を主張しているのにすぎないのではないか、と。
具体的には、Oさんのコメントの「上演の一番根幹に関わる作品が無断で上演していい。無料で上演していいということには疑問を感じます。劇作家は同一性で対抗せざるをえません」という部分や、「なにか言いがかりのように思われるかもしれませんが、著作権を護る最後の手段だと、心苦しいのですがそうさせていただいております」という部分に、端的に表れていると思われます。


ただ、以上のような私の主張ついて、実は、ほかでもない私自身が腑に落ちない点がありました。


それは、私の議論が、Oさんが「戯曲は、原作通りに演ることは不可能」だと主張されていることを根拠として、論理を組み立てているところです*12

そこで考えてみたいのですが、もし、Oさんの主張が、つぎのようなものだったらどうでしょうか。
「戯曲を原作通り演じることは十分に可能だが、無許諾で上演した場合に、もしも、『ト書きの指摘、台詞の「てにをは」句読点にいたるまで』1か所でも改変されていれば、同一性保持権侵害にあたる」。


で、考えてて思ったんですが、Oさん(=個々の著作者)だけが、自分が書いた戯曲の同一性保持権侵害について、その基準を示すことができるということには、とくに権利制限規定との関係において、法的安定性の上から問題があるのではないでしょうか。


法文に戻って考えてみます。
著作権法第20条を確認してみましょう。

第20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
第2項 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない。
1.第33条第1項(同条第4項において準用する場合を含む。)、第33条の2第1項又は第34条第1項の規定により著作物を利用する場合における用字又は用語の変更その他の改変で、学校教育の目的上やむを得ないと認められるもの
2.建築物の増築、改築、修繕又は模様替えによる改変
3.特定の電子計算機においては利用し得ないプログラムの著作物を当該電子計算機において利用し得るようにするため、又はプログラムの著作物を電子計算機においてより効果的に利用し得るようにするために必要な改変
4.前3号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変


私は、第20条第1項が「その意に反して」というときの「その意」とは、個々の著作者の主観的な意思そのものと考えるべきではないと考えます。


作花文雄さんの説明を引用します。

「意に反する」かどうかについての判断は、著作者の主観そのものというよりも、法的安定性の見地から、その分野の著作者の立場からみて、常識的に、そのような改変は著作者の意に反するものと通常言えるかどうかという観点から判断すべきである。*13


どうしてこのように考えるのか。
具体的に考えてみましょう。
「その意」を著作者の主観そのものと解釈してしまうと、つぎのような問題が起こるのです。


38条1項は、非営利・無料・無報酬の要件を満たす場合には、権利者に無許諾・無料での上演を認めています。
そこで、その適用があると考えた主催者は、当然、権利者の許諾を受けないままに戯曲を上演します。
しかし、その際、戯曲の著作者が、Oさんのように同一性保持権について非常に厳格な考えをもつ方だった場合、たとえ戯曲には手を加えていなかったとしても、上演の際に「てにをは」1つが違ってしまっただけで、不意に、著作者から同一性保持権侵害との主張がなされる可能性が出てきてしまいます。
こうして、Oさんのような著作者による不意打ちに備えるためには、38条1項の適用があるケースでも、念のため、著作者に同一性保持権について事前に確認し、場合によっては許諾を得るのが無難だということになってしまいます。
これでは、法律が、権利者に無許諾・無料での上演を認めた意味がまったくなくなってしまいますが、私が、この数年間しつこくこだわっている全国高等学校演劇協議会や日本演劇連盟の規定の問題は、結局のところ、この問題に集約されているのです*14


話がそれました。

この問題を解決するために、私には、「その意」を著作者の主観そのものと解釈するのではなく、「その分野の著作者の立場からみて、常識的に、そのような改変は著作者の意に反するものと通常言えるかどうかという観点から判断すべき」だと思われるのです。


これに関連して、判例にはつぎのように説くものがあります。

著作物の表現の変更が著作者の精神的・人格的利益を害しない程度のものであるとき,すなわち,通常の著作者であれば,特に名誉感情を害されることがないと認められる程度のものであるときは,意に反する改変とはいえず,同一性保持権の侵害に当たらないものと解される。*15


以上のような見方について、Oさんからは、次のような反論があるかもしれません。
すなわち、劇作家の世界においては、「その分野の著作者の立場からみて、常識的に」、「通常の著作者」は、「ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点にいたるまで」一切の改変を認めない、よって、戯曲に対するあらゆる改変は同一性保持権侵害にあたるのだと。


では、この判例はどうでしょうか。

意に反するか否かは,著作者の立場,著作物の性質等から,社会通念上著作者の意に反するといえるかどうかという客観的観点から判断されるべきであると考えられる。そうすると,同一性保持権の侵害となる改変は,著作者の立場,著作物の性質等から,社会通念上著作者の意に反するといえる場合の変更がこれに当たるというべきであり,明らかな誤記の訂正などについては,そもそも,改変に該当しないと解されるところである。*16


ここでは、意に反するか否かは、著作者の立場だけではなく、「著作物の性質等」も含めて「客観的観点から判断されるべき」だとされています。

とすれば、戯曲の上演という「著作物の性質」を考慮すれば、少なくとも、「ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点」について、一切の改変を認めないというのは行き過ぎではないでしょうか。*17
実際に劇場で芝居を観る方にはお分かりだと思いますが、実力のあるプロの俳優であっても、ある芝居の公演期間中に一度もセリフをかんだり飛ばしたことがないということは、なかなかないことです。


また、この問題は、著作権法第20条第2項第4号の「やむを得ない改変」に該当すると考えることも可能です。

以前のエントリー*18でも紹介した中山信弘さんの説明を引いておきます。
中山さんは、「やむを得ぬ改変」をもっと広く解釈していて、「学校の学芸会で脚本の一部を上演したような場合」も、これにあたるとお考えです。

条文上は切除も同一性保持権侵害の一態様として規定されているが、原作を改変しないで一部分を利用したことが明らかなような場合は、4号に準じて同一性保持権侵害とならない場合もありうると考えられる。例えば、学校の学芸会で脚本の一部を上演したような場合、全て同一性保持権侵害と解することには問題があろう。


(中略)


解釈論としては、やむを得ぬ改変と考えるべきであろう。*19


また、作花文雄さんは、つぎのような説明をされています。

実際どのような場合が「やむを得ないと認められる改変」になるのか明確ではないが、複写や録音の技術的制約からくる質的劣化や、演奏技術の未熟さにより作曲家の創作通りのレベルで演奏ができない場合など、種々のケースが考えられる。*20

ここで、「演奏技術の未熟さにより作曲家の創作通りのレベルで演奏ができない場合」というのは、演劇で言えば、演技力の未熟さから、「ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点にいたるまで」を原作通りのレベルで上演できない場合にあたるのではないでしょうか。


また、文化祭での演劇上演や高校演劇部の上演について、一定の範囲においては同一性保持権侵害にあたらないケースがあるというのは、(その論理は明らかではないとしても)一般的なとらえ方ではないでしょうか。


たとえば、文化庁のウェブサイトにある「著作権なるほど質問箱」を見てみましょう。

Q 演劇脚本集の中の作品を、生徒が文化祭で上演することは、著作権者の了解を得ることなく行えますか。


A 一般的に著作権者の了解は必要ありません。
 非営利・無料・無報酬で脚本を上演する場合には、著作権者の了解なしにできます(第38条第1項)。なお、この特例は、練習等のために脚本をコピーして部員に配布することまで認めていないので、脚本をコピーする場合は、原則として著作権者の了解が必要です。また、部分的に脚本を書き直すことについては、著作者の意に反するような改変をすると、著作者人格権の一つである同一性保持権(第20条)の侵害になりますので注意が必要です。 *21

「一般的に著作権者の了解は必要ありません」と言い、また、「部分的に脚本を書き直すことについては、著作者の意に反するような改変をすると、著作者人格権の一つである同一性保持権(第20条)の侵害になります」という記述が存在するということは、文化庁は、明らかに、同一性保持権侵害にならないケースがあることを想定しています。


文化庁著作権なるほど質問箱」からもう1つ。

Q 学校の文化祭で演劇部が市販の脚本集から選んだ脚本を用いて劇を発表することになりましたが、著作権の問題はありますか。


A 脚本の上演については、一般的に問題ありません。
 非営利・無料・無報酬で脚本を上演する場合には、著作権者の了解なしにできます(第38条第1項)。なお、この特例は、練習等のために脚本をコピーして部員に配布することまで認めていないので、脚本のコピーについては、原則として著作権者の了解が必要です。 *22


ついでに、社団法人著作権情報センター(CRIC)も見てみます。
著作権Q&Aシリーズ」です。

Q 文化祭等で、演劇の上演や音楽の演奏を行う場合、著作権者の許諾を得ておく必要がありますか。


A 文化祭等で演劇の上演や音楽の演奏などを行う場合には、原則としては上演権や演奏権等が働くことになり、著作権者の許諾を得る必要がありますが、

(1) その上演又は演奏等が営利を目的としていないこと
(2) 聴衆又は観衆から鑑賞のための料金を取らないこと
(3) 演奏したり、演じたりする者に報酬が支払われないこと
という3つの要件をすべて満たす場合には、著作権者の許諾を得ずに演劇の上演や音楽の演奏をすることができます。*23


また、著作権法の起草者の立場においても、38条1項が適用される例として、「上演の例としては学校の学芸会」が挙げられています。*24


すいません。
調子に乗って、またもや長文になってしまいました。


今日のまとめです。

私は、著作権法第38条第1項が適用される、非営利・無料・無報酬での演劇上演(文化祭での生徒による上演、演劇部による上演など)においては、少なくともある一定の範囲の改変については、同一性保持権侵害が成立しないと解すべきだと考えます。

その根拠は2つ考えられます。

1つは、第20条1項のいう著作者の「意」を、「著作者の立場,著作物の性質等から,社会通念上著作者の意に反するといえるかどうかという客観的観点から判断」すること。
そして、もう1つは、そのような改変は「やむを得ない改変」と考えるべきであること。


Oさんへのお返事シリーズは、一旦、これで終わりです。
現時点で私の伝えたいことは、たぶん、全部書いたと思います。


しかし、前回のエントリーでは、Oさんに相当嫌われてしまったみたいです。
なにしろ、真正面からの再反論はいただけず、コメント欄では、「あなたが、心から上演料をとることが不当だと思われるのなら」、Oさんや「全国高等学校演劇協議会なり大阪府高等学校演劇連盟を提訴すべき」だという、なんだかよく分からない方向からの返答をいただいてしまったのですから。


でも、もしOさんが、この文章を読んでいらっしゃったら、どうしても確認しておきたいことがあります。


それは、私がこの問題に対するときの究極の目的は、高校演劇だったり、日本の演劇界全体だったりが、もっともっと発展していってほしいと願っているからです。
けして、とにかく「タダでやらせろ」とかいうことが、私の最終的な目的ではないことはご理解ください。


日本には(世界にも)優れた戯曲がたくさんあります。
しかし、同時に、それらの戯曲にふれる機会のない人たちがあまりにも多すぎます。
また、高校演劇部の中には、タダでやれるという理由だけで、安易で低レベルな創作劇に走ったり、あるいは、インターネットでレベルの低いフリー脚本をあさったりする、そういうところも多いように思われます。


そういう人たちに、著作権法第38条第1項が適用される場合に限って、権利者に無許諾・無料での上演が認められれば(いや、法律上は認められているんですが)、少しは状況が変わってくるのではないでしょうか。
それはけして、著作権なんか尊重しなくたっていいっていうようなことではなく、著作権はこれまでと同様(あるいはそれ以上に)尊重しつつも、公正な利用に留意し、もって文化の発展に寄与するという、著作権法の思想そのものだと思うのですが・・・。

*1:その1、その2はこちらです。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20110810http://d.hatena.ne.jp/chigau/20110816

*2:著作権法第38条1項 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

*3:著作権法第20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

*4:半田正夫ほか編『著作権法コンメンタール 2』(勁草書房)2009年、304ページ

*5:http://www.cric.or.jp/db/article/old.html

*6:http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S59/S59HO046.php。なお、次の二項とは現行法の4項・5項のこと。

*7:http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S61/S61HO064.php

*8:http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/H11/H11HO077.php

*9:http://www.cric.or.jp/db/article/old.html

*10:http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/S60/S60HO062.php

*11:http://hourei.hounavi.jp/seitei/hou/H15/H15HO085.php

*12:私にとって、残念なのは、Oさんが、どのような意味を込めて、「戯曲は、原作通りに演ることは不可能」だとおっしゃっているのかが、よくわからないことです。しかし、ご説明いただけないものはいたしかたないので、ともかく検討を進めてみます。

*13:作花文雄『詳解著作権法 第4版』(ぎょうせい)2010年、242ページ

*14:全国高等学校演劇協議会に関しては、たとえば私の以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101127http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101129。日本演劇連盟の規定については、私の以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20081001

*15:「国語教科書準拠小学生テスト」事件(東京地裁平成18年3月31日、判例タイムズ1274号255〜328頁)http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060406210954.pdf

*16:「計装士技術講習会資料・職務著作」事件(東京地裁平成18年2月27日)http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/D3499B2050FDAE7949257123000539C8.pdf

*17:ただし、大橋さんの主張にとって有利な重要判例もあります。法政大学懸賞論文事件(東京高裁平成3年12月19日、判例時報1422号123〜128頁)では、送りがなの変更や読点の削除、中黒の読点への変更などについて、同一性保持権侵害を肯定しています。http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/6A5A30F9458EB3F249256A7600272B4D.pdf

*18:http://d.hatena.ne.jp/chigau/20100820

*19:中山信弘著作権法』(有斐閣)2007年、402ページ。念のために書き添えておきますが、学芸会での上演であろうと、高校演劇部の上演や一般のアマチュア劇団の上演であろうと、無許諾・無料での上演が認められることの根拠規定は、著作権法第38条第1項です。

*20:作花文雄『詳解著作権法 第4版』(ぎょうせい)2010年、246ページ

*21:http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000308

*22:http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000444

*23:http://www.cric.or.jp/qa/cs01/cs01_3_qa.html

*24:加戸守行『著作権法逐条講義 5訂新版』、著作権情報センター、2006年、274ページ

ある劇作家からのコメントへの返答(その2)―そもそも権利制限規定とはなにか―


こんにちは。


さて、今日は劇作家のOさんからいただいたコメントに対するお返事、その2です*1
今日はちょっと長くなりそうです。


では、早速いただいたコメントを読んでみましょう。
2011年6月17日付のものです。

あなたのおっしゃることは、「高校演劇が既成本を上演する際に上演許可をとることがおかしい。無断上演で構わない。その法的根拠は、著作権法第三十八条に『入場料をとらず、キャストなどにギャラが支払われない限り、上演許可をえなくてもいい』というところがご発言の根拠になっていると思量いたします。著作権法は平成十年代にあいついで改変され今日に至っております。わたしは戯曲の使用にあたっては、かならず著作者の許可を得なければならないと考えております。一つは、芸術的な倫理観であります。ご存じだとは思うのですが、演劇の三要素は「観客、戯曲、役者」であります。演劇が演劇たり得るかくべからざる要素です。考えてください、高校演劇だからと言って会場費タダになりますか? 道具の材料費、衣装、メイク、運送費タダになりますか? なりませんよね。なのに、欠くべからざる戯曲の使用だけが、無断、無料でいいのでしょう? わたしには理解できません。しかし、あなたは「法的にそう書いてある」と、おっしゃるでしょう。正直、著作権法は不備であります。第二十条に「著作者の同一権保持」について書かれています。「著作者に無断で、著作物に改変をくわえてはならない」ということが書かれています……もうお分かりでしょう。戯曲は、原作通りに演ることは不可能であります。台詞の一言、句読点にいたるまで変えてはいけないのです。矛盾しているとは思いませんか。一方で無断上演を認めておきながら、もう一方では「変えてはいけない」と書かれているのです。これは法律そのものの矛盾です。妥協の産物であったのかもしれません。わたしは無断上演を発見した場合、上演を記録したビデオまたはDVDの提出を求めます。改変されていないかどうかは台本では分かりません。また前述したように、原作と一言一句変えずに上演することは不可能だからです。もし、記録が無かったり、改変が行われている場合は、その時点で改変の許可願いを出していただきます。どうですか法的にはどこも間違っておりません。昔通り、上演許可を求めてこられた場合「上演料は払わない」と、おっしゃる場合、「では、作品の改編はいっさい認めません」と、お答えすることにしています。ただ、過去百五十あまりの上演でそういうケースはありませんでした。法律がおかしい、そういう視点で著作権法を読み直してください。
*2


私がこれを読んでまず思ったことは・・・
「この人に分かってもらうためには、著作権法を1から説明しないとだめだ」。
で、結構気持ちが萎えてたんです。
でも、考えてみると「きっとOさんみたいに考えている劇作家の方は意外と多いのかなあ」って思いました。


頑張るしかありませんね。
いってみましょう。
まず、著作権法第38条第1項について確認します

38条1項では、公表された演劇の脚本は、(1)営利を目的とせず(非営利)、(2)観客から料金を徴収せず(無料)、(3)実演家に報酬を支払わない(無報酬)という3条件を満たせば、著作者に無許諾かつ上演料無料で上演することを認めています*3


このため、私は、全国高等学校演劇協議会が、大会に参加する全国の高校演劇部に対して、一切の例外なく、著作者に上演許可を得るよう(また、権利者に求められれば上演料5000円の支払いを行うよう)指導することは、法的に誤った対応であると考えています*4


しかし、38条1項の適用には難しいポイントが1つあります。
著作権法は第50条で「この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない」と定めています。
このため、38条1項により無許諾・無料での上演が認められる場合でも、同一性保持権*5などの著作者人格権は保障されることになるのです。


さて、Oさんのコメントにもどりましょう。

Oさんは、非営利・無料・無報酬の上演に対しても、著作権法第38条第1項の規定を無視して、権利者に上演許可を得るよう要求されています。
そして、その根拠の「一つは、芸術的な倫理観」とおっしゃいます。

しかし、私はOさんがおっしゃっていることは「芸術的な倫理観」ではないと思います。
なぜなら、Oさんは、ご自身の考えとして演劇の三要素が「観客、戯曲、役者」であることにふれたあと、つぎのように記されているからです。

考えてください、高校演劇だからと言って会場費タダになりますか? 道具の材料費、衣装、メイク、運送費タダになりますか? なりませんよね。なのに、欠くべからざる戯曲の使用だけが、無断、無料でいいのでしょう? わたしには理解できません。


私は、「会場費、材料費、衣装、メイク、運送費はタダにならないのに、戯曲の使用がタダなのは納得いかない」というのを「芸術的な倫理観」とは言わないと思います。
(たしかに、このなかでは、戯曲だけが芸術に直接関係のあるものではありますが・・・。)

「倫理観」というのは、「演劇の世界では、それがたとえアマチュアの上演であろうと、たとえ高校生の上演であろうと、脚本を書いた劇作家に直接連絡を取って、上演を認めてもらえるようお願いすることが当然の礼儀なのです」とか、そういうことだと思います。

また、Oさんが、演劇の三要素を「観客、戯曲、役者」だとお考えなら、なぜ、主催者が入場料を受け取らず、役者も無報酬なのに、戯曲作家にだけは報酬が支払われなければならないのでしょうか。
「戯曲の作者だけが報酬を受けること」が、「芸術的な倫理観」なのでしょうか。
私には、著作権法が定めるように、非営利の上演で、主催者が観衆から料金を受けず、実演家が報酬を受けない場合に限っては、脚本の著作者の権利も制限されるという方が「芸術的な倫理観」を尊重しているようにも思われます。


が、「倫理観」とは何かをあれこれ言い立てるのは、あまり生産的ではないように思います。
もっとOさんの疑問に正面から答えられるよう頑張ってみます。


なぜ、会場費、材料費、衣装、メイク、運送費はタダにならないのに、戯曲の使用は無料なんでしょうか?


思うに、それは、著作権と、会場費・材料費等は、対価として支払う費用の根拠となる権利の性質が異なるからではないでしょうか。

が、すいません、民法とか商法とかのことはすっかり忘れてしまっていてよく分かりません(ダメじゃん、俺)。
でもなんとか、もう少しだけ続けてみます*6


会場費はホールという施設の賃貸料、材料費・衣装は有体物の引き渡しに対する対価、メイク・運送費は用役(サービス)の提供に対する対価です。
すると、これらを無料にしろという類の制限を課すというのは、すなわち、個人や企業・団体の財産権や営業の自由に対して制限を課すことを意味します。
で、財産権や営業の自由の問題であれば、時と場合よっては制限されることもありますよね(タダにしろっていうのはちょっと思いつきませんが・・・)。


根本は日本国憲法第29条です。
2項と3項が制限規定です。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。
第2項 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
第3項 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。


3項からは土地収用法が思い出されますし、きっと独占禁止法は営業の自由に対する制限の代表的な例でしょう。


ついでに、他の例を挙げると、たとえば、食品衛生法にはつぎのような規定があります。

第6条 次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
一 腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの。(以下省略)


財産権が保障され、また契約自由の原則があるにもかかわらず、「腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの」を「販売し」、「又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない」のです。


農地法第18条はこんな規定です。

第18条 農地又は採草放牧地の賃貸借の当事者は、政令で定めるところにより都道府県知事の許可を受けなければ、賃貸借の解除をし、解約の申入れをし、合意による解約をし、又は賃貸借の更新をしない旨の通知をしてはならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合は、この限りでない。


法律により、農地の賃貸借の当事者は、勝手に農地の賃貸借を解除したりできないんですよ。


長いよ! 俺。

小括をしておきます。
たしかに、非営利等を理由に、会場費、材料費、衣装、メイク、運送費といったものがタダになるケースというのはちょっと見あたりません。
しかし、財産権がなんらかの制限を受けることはよくあることで、ただ著作権だけが権利制限の対象になるわけでもないのです。
ただ、権利によって、その制限される場面に違いがあるだけです。
(自信のない部分はここまでです。重ね重ねすいません。)


さて、つぎの問題です。


思うに、Oさんは、そもそも、著作権が制限される場合があるってことに納得されてないんじゃないかと。
著作権は絶対不可侵で、どんな場合でも尊重されるべきだって、そうお考えなんじゃないでしょうか。

そこで、著作権法の根本のところをもう一度説明してみましょう*7


著作権法第1条からいきます。

この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。


著作権法の目的には、「著作者等の権利の保護」、「文化的所産の公正な利用」、「文化の発展に寄与すること」が挙げられています。


この点について比較的新しい概説書の解説を引用しておきます。

著作権法は、著作者に独占権を付与することを通じて、著作物が生み出されるための基盤を提供し、ひいては著作物の創作活動を誘引しているのである。


他方、著作物は単に生み出されただけでは社会を裨益しない。それは、人々に享受され、また次なる創作活動への礎となってはじめて、社会にとっての存在意義を発揮する。したがって、著作者の権利を一方的に強化し創作の誘因を高めるだけでなく、一定程度利用の自由を確保する必要もある。そこで、著作権法は、権利侵害となる利用行為類型や権利の存続期間などを限定することで、著作者の権利が無制約に強い権利とならないように配慮している。
*8


つぎに、特許との比較をしておきましょう。
特許法第1条です。

この法律は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的とする。


著作権法と同じ構造なのはお分かりいただけますね。
特許法は、発明を保護するとともに利用を図り、産業の発達に寄与することを目指しているのです。


このように、知的財産権の保障においては、著作権法でも特許法でも、権利を保護すると同時に制限もするという考え方がとられていて、それは著作権法だけに固有のものではありません。
そして、Oさんにもぜひご理解いただきたいのですが、知的財産権保護においては、権利者にどのような権利を与え、どのような制限を課すかは、法律によりその権利の種類に応じて定められているのです。
ですから、権利の保護も制限も、根拠は常に法律にあるのです。


1つ例を挙げておきましょう。

特許法第67条第1項で、「特許権の存続期間は、特許出願の日から二十年をもつて終了する」と定められています。
これに対し、著作権は、著作権法第51条第2項で、著作権は「著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)五十年を経過するまでの間、存続する」となっています。

で、これは、「特許権著作権より軽い権利だ」とか、「特許権著作権と比べて大事じゃない」とか、そういうことではないのは分かりますか。

どっちも大事なんです。
どっちも大事なんですが、法律の目的を達成するために、それぞれの権利の性質に応じて、権利保護と権利制限の内容が異なっているのです。
発明の方は、著作権以上に、(発明の)利用を図ることによって、産業の発達に寄与することが期待されているので、存続期間が短いのです。


ここで、著作権法の権利制限規定について考えてみます。


質問です。
Oさんは、つぎのような場合に著作者・著作権者に利用許諾をとりますか?
あるいは、許諾をとるべきだとお考えですか?
なお、括弧内は著作権法の該当条文です。

(1)授業で使う教材として他人の著作物を複製する場合(第35条第1項)
(2)図書館で所蔵されている書籍のコピーをとるとき(第31条第1項第1号)
(3)定期考査の試験問題に他人の文章を利用するとき(第35条第1項、または第36条第1項)
(4)論文や報告書などに他人の著作物から引用するとき(第32条第1項)


このようなときに、いちいち許諾を取ったり、使用料を支払ったりしていないはずです。
もちろん、高校の先生方が生徒にそうするように指導してもいないでしょう。
なぜなら、これらの行為は、著作権法著作権が制限されているケースだからです。
法律でそう定められているから、それ以外には理由がないはずです。
念のためにいうと、これらの場合にも同一性保持権は生きていますし、権利者に無許諾・無料での利用が認められています。
38条1項と同じです。


では、どうして、上のようなケースでは著作権使用料を支払わないのでしょうか?

それは、これらの例が、「文化的所産の公正な利用」を通じて「文化の発展に寄与する」ために、著作者の権利を制限するものだからです。
文化の発展にとって、著作権保護はいうまでもなくとても重要なことですが、それと同時に権利制限規定も必要なものなのです。


最後にどうしてもふれておかなければならない問題があります。

Oさんは、最初のコメントから一貫して、そもそも一般的に「戯曲は、原作通りに演ることは不可能」なので、戯曲を上演すると、必ず同一性保持権の侵害になるという趣旨の主張をされています*9
そして、さらにこう書いてらっしゃいます。

わたしは無断上演を発見した場合、上演を記録したビデオまたはDVDの提出を求めます。改変されていないかどうかは台本では分かりません。また前述したように、原作と一言一句変えずに上演することは不可能だからです。もし、記録が無かったり、改変が行われている場合は、その時点で改変の許可願いを出していただきます。どうですか法的にはどこも間違っておりません。昔通り、上演許可を求めてこられた場合「上演料は払わない」と、おっしゃる場合、「では、作品の改編はいっさい認めません」と、お答えすることにしています。ただ、過去百五十あまりの上演でそういうケースはありませんでした。


このコメントはかなり問題だと思います。
上演許可を求められたときに、「『上演料は払わない』と、おっしゃる場合、『では、作品の改編はいっさい認めません』と、お答えする」というところです。

言いかえますね。
一方で、「戯曲は、原作通りに演ることは不可能」なので、戯曲を上演すると必ず同一性保持権の侵害になるといい、もう一方で、「『上演料は払わない』と、おっしゃる場合、『では、作品の改編はいっさい認めません』と、お答えする」というのは、いかがなものでしょうか。


これは私には明らかな権利濫用*10に思われます。
著作権法の適用において、権利濫用の抗弁は認められにくいとも聞きますが、さすがにこれはめちゃくちゃです。

Oさんのおっしゃる同一性の保持とは、「お金を払ってください。お金さえ払ってくれたら同一性保持権は問題ない」というのと何か違いがあるのでしょうか?

Oさんが「命を削って」書いた戯曲の、「ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点にいたる」までのこだわりは、高校演劇部に5000円を払ってもらうことで解決できるのでしょうか?
でも、お金を払った人も「原作通りやることは不可能」なんですよね。


またもや、興奮しすぎました。
今日はこのへんで。


追伸
Oさん、感情的な文章になってしまってすいません。
これに懲りずに、またコメントしていただけたら幸いです。

*1:その1はこちらです。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20110810

*2:私の2008年8月28日のエントリーに対するコメント。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080828

*3:著作権法第38条1項 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

*4:ですから、著作権法第38条1項に該当するにもかかわらず、上演許可がなければ高校演劇部は大会で既成脚本を上演することが許されません! 詳しくは、私の書いた以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101122http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101127http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101129。全国高等学校演劇協議会の「著作権ガイドライン」は以下を参照してください。http://koenkyo.org/chosaku/chosakuindex.html

*5:著作権法第20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

*6:ここから先の内容は、書いている私自身が合ってる気がしません。ただ、「一般的な財産権(=物権や債権)の問題と、著作権の問題は同一の論理では語れないはずだ」ということだけは理解していただきたいと思います。ほんとすいません。

*7:私はこの点について以前に「高校演劇において著作権指導はどうあるべきか」というエントリーを書いています。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080903/http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080905/http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080918/http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080923/1222098381

*8:島並良ほか『著作権法入門』(有斐閣、2009年)2ページ

*9:私は、この考え方には同意できませんこの点については先日のエントリーで私の考えを述べました。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20110810

*10:民法第1条第3項 権利の濫用は、これを許さない。

ある高校演劇部顧問からのコメントへの返答(その1) ―脚本への歌詞の引用をめぐって―


こんにちは。


私がブログの更新ができずにいる間に、先日紹介した大橋むつおさん*1以外にもコメントをいただきました。
今日はそのなかから、高校の舞台芸術部(=演劇部)の顧問をされている片岡直史さんからのコメント*2を取り上げます。


早速、いただいたコメント(主要部分)を見てみましょう。

さて、「第38条*3」関係で、私が経験した、もしかすると参考にしていただけるかもしれないケースを御紹介します。それは、「脚本に曲の歌詞の一部を使う」場合の、JASRAC出版部の見解です。
高校演劇の大会で何かを上演しようとする場合、上演校は必ず脚本を審査員と舞台スタッフ(照明・音響・舞台)に提出します。JASRAC出版部が言われたのは、「学校で部員が使う脚本に歌詞の一部を書くことは、著作権法第38条が適用され、利用許諾を得る必要はない。しかし、学校外の人に見せることが前提となっている場合は、一般の出版物同様、利用許諾を得なければならない」ということでした。当方では「外部に出るのは、地区大会だと審査員用3部、スタッフ用3部、保存用1部の合計7部である」と説明したのですが、どうやら1部でも外部の人に見せる場合は、利用許諾を得た上で、著作権料を支払わなければならないようなのです。
これから考えるに、高校演劇の大会での上演は、第38条が適用される「「上演」「演奏」「上映」「口述」のいずれかであること」の範囲外である、「出版」も含んでいると考えられないでしょうか。


いくつか気になることがあります。
まず、「学校で部員が使う脚本に歌詞の一部を書くことは、著作権法第38条が適用され、利用許諾を得る必要はない」(JASRAC出版部の見解)という部分です。

そう、著作権法第38条が根拠なのが変ですね。
著作権法第38条第1項は上演権の問題ですので、「書くことに」「著作権法第38条が適用され」るというのは、何かの間違いでしょう。
また、「学校で」という場所の限定がついているのもおかしいと思います。
思うに、正しく言い直せば、「たとえ上演場所が学校であれどこであれ、非営利・無料・無報酬の条件を満たせば、歌詞の一部を上演(口述かな?)することは、著作権法第38条第1項が適用され、利用許諾を得る必要はない」となるはずです。


つぎに、「しかし、学校外の人に見せることが前提となっている場合は、一般の出版物同様、利用許諾を得なければならない」(JASRAC出版部の見解)という部分です

ここまで読んでやっと事情が飲み込めてきました。
片岡さんとJASRAC出版部は、曲の歌詞の一部が使われている脚本を印刷して、審査員などに配ることを問題にしていたのですね。

そうすると、これは、歌詞の一部を無許諾で印刷して配っていいかどうかっていう話です。
これは複製権の問題ですね。
38条1項は上演権の権利制限規定ですから、無許諾・無料での複製を認めるわけではありません。
よって、JASRAC出版部のいうとおり「一般の出版物同様、利用許諾を得なければならない」となります。


ここで2つ確認しておきたいポイントがあります。

1つは、JASRAC出版部のいう「学校外の人に見せることが前提となっている場合は」という限定です。
この部分は、明らかに、著作権法第35条第1項*4を意識しているように思われます。
「学校その他の教育機関における著作物の複製に関するガイドライン*5によれば、35条1項により学校において著作物の複製が認められる授業の過程には部活動も含まれているからです。

片岡さんは、「高校演劇の大会での上演は、第38条が適用される『「上演」「演奏」「上映」「口述」のいずれかであること』の範囲外である、『出版』も含んでいると考えられないでしょうか」とコメントされました。
これは、私なりにいいかえれば、「学校の外で行われる高校演劇の大会は、授業の過程の外側に属するため、35条1項の適用範囲外にあるのではないか」ということになります。
大会が授業の過程の外かどうかは、私には即断できませんが、一般的にいって部活動は大会参加も含めてその活動の全体が成立しているように思われます。
ただ仮にそうだとしても、審査員に渡すとなるとマズイですね。


さて、もう1つのポイントは「引用」との関係です。
片岡さんのコメントには、「引用」という文言はなく、「脚本に曲の歌詞の一部を使う」とか、「脚本に歌詞の一部を書く」という言葉しか出てきません。
コメントにある脚本に使われた歌詞の一部がどの程度のものなのか私には分かりませんが、これは「引用」にあたる可能性を秘めていると感じます。

著作権法32条第1項を示します。

32条第1項 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

これについて、最高裁判例は、「引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される著作物とを明瞭に区別して認識することができ」(明瞭区別性)、かつ、「両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならない」(主従関係)としています*6

もし片岡さんのケースが、最高裁判例の示す要件を満たす「引用」であれば、無許諾・無料での複製や口述が可能になります。
そこで、おそらく、JASRAC出版部は「引用」という語句の使用を意識的に避けているのでしょう。


ついでに、JASRACが歌詞の引用をどのように見ているのかを確認してみましょう。
「旅と現代文学。」というサイトに、サイト主が、かつてJASRACと歌詞の引用について交わしたやりとりが紹介されています*7
そこでJASRAC側はつぎのように言っています。

「引用」は「引用」と認められる利用方法であることが条件です。あくまで、研究、論文、報道等で、そのものに著作物として、創造性があるもののなかに、楽曲,歌詞の引用が不可欠な場合と判断しております。

また、「引用」は自分の著作物の創作の為に行うものであり、「引用」の目的上、正当な範囲内つまり著作物全体の中で自分が創作した部分が主であり、「引用」された他人の著作物が従であるという主従関係が守られていることが必要です。また、目安として、ご利用の分量も関係してきます。

JASRACのいう後段の部分は判例の要件と一致しています。

しかし、前段はどうでしょうか?

JASRACは目的要件を、「研究、論文、報道等で、そのものに著作物として、創造性があるもののなかに、楽曲,歌詞の引用が不可欠な場合」としています。
しかし、32条1項の条文にも、最高裁判例にもそのような文言は見あたりません。
しかも、上の最高裁判例では、「引用とは、紹介、参照、論評その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいう」とされているのです。
「研究、論文、報道等で」「楽曲,歌詞の引用が不可欠な場合」と、「紹介、参照、論評その他の目的で」「他人の著作物の原則として一部を採録すること」にはかなりの開きがあるように感じるのは私だけではないでしょう*8


また、引用の目的要件に関して言えば、音楽作品の小説への引用について、JASRAC日本文芸家協会との間に覚書が交わされているそうです。
加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』から引用します。

音楽作品の小説への引用の場合には、(社)日本音楽著作権協会と(社)日本文芸家協会との間において、覚書が交換され、例えば歌詞の1節以内であれば許諾を求める必要がないこととされていますが、それは、実務的な処理に関する両当事者間の合意であって、本項の解釈を左右するものではありません。実際問題として、ケースによっては、1節を超えても引用可能の場合もあるし、逆に1節以内でも引用できない場合がありましょう。*9

そう、小説への引用であっても「ケースによっては、1節を超えても引用可能の場合もある」のです。

ついでに、文化審議会著作権分科会法制問題小委員会の参考資料のなかにもつぎのような指摘が見受けられます。

マンガにおいて、ごく一部でも既存楽曲の歌詞が出てくるとJASRACジャスラック)許諾番号が記載されており、違和感があるとの声も耳にする。このような利用は主従関係では従であり、引用で許される可能性もなくはないのではないか。*10


まとめましょう。
以上の通り、条文・判例が示した要件を満たせば、演劇の脚本に歌詞の一部を、無許諾・無料で、「引用」して上演することも認められる可能性があるのです。


それと、片岡さんのコメントには次のような部分があります。

報酬に関してですが、高校演劇の大会の場合、「自主上演」とするにはお金が足らないため、都道府県の高等学校文化連盟から金銭的補助を受けての上演になります。これが「報酬」の一部ととらえられなくもないのでは、とも思います。

しかし、だいぶ長くなりましたので、この部分に関しては、また改めて論じたいと思います。
ではまた。

*1:http://d.hatena.ne.jp/chigau/20110810

*2:2010年11月22日のエントリーに対するコメント。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101122 なお、片岡さんが顧問を務める高校は先日の全国大会で最優秀賞を受賞されました(合ってますよね)。おめでとうございます。http://koenkyo.org/memorial/2011/kekka.html

*3:著作権法第38条1項 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

*4:第35条1項 学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

*5:http://www.jasrac.or.jp/info/dl/gaide_35.pdf

*6:最三小判昭和55年3月28日民集34巻3号244頁。たとえば以下を参照。http://www.ayumu-iijima.com/materials/CasesJP/SC3S550328-S51o923.htmhttp://www.juris.hokudai.ac.jp/coe/articles/tamura/casenote94a.pdf

*7:http://www.tabibun.net/news/2002/topic01.html

*8:この辺りの内容については以下のサイトを参考にさせていただきました。http://tatuya.niu.ne.jp/copyright/column/06.html

*9:加戸守行『著作権法逐条講義 四訂新版』1245ページ。すいません、原文に私はまだ原典にあたっていません。以下のサイトから孫引きしています。http://d.hatena.ne.jp/copyright/20031124/p3

*10:http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/08062316/007/011.htm

ある劇作家からのコメントへの返答(その1) ―権利制限規定と同一性保持権の関係をめぐって―


こんにちは。
たいへんご無沙汰しています。


今年前半もいろいろありました。
そんななかで印象に残ったのは、『南へ』公演中の野田秀樹さんの言葉。そう「劇場の灯を消してはいけない」*1ですよね。
私が観た芝居では、作・井上ひさしさん、演出・栗山民也さんの2作品(『日本人のへそ』、『雨』)、生誕50周年の三谷幸喜さんの『国民の映画』、『ベッジ・パードン』が他を寄せ付けない別格の出来でした。
また、初演を見逃した『焼肉ドラゴン』もようやく観ることができました。
北区つかこうへい劇団解散公演も5本拝見しました。ひさしぶりにつか芝居に出演された神尾佑さん、吉田智則さんの演技が印象に残りました。


さてその間に、劇作家のOさんから2つのコメントをいただきました。しかもコメントの1つは半年以上も前にいただいていて、なかなかきちんとお返事ができず失礼してしまいました。
そんなわけで、今日はOさんのコメントに私から返答します。


まずはいつもの確認からです。
著作権法第38条第1項により、公表された演劇の脚本は、(1)営利を目的とせず(非営利)、(2)観客から料金を徴収せず(無料)、(3)実演家に報酬を支払わない(無報酬)という3条件を満たせば、著作者に無許諾かつ上演料無料で上演することが認められます*2


このため、私は、全国高等学校演劇協議会が、大会に参加する全国の高校演劇部に対して、一切の例外なく著作者に上演許可と上演料5000円の支払いを行うよう指導するようになったことは法的に誤った対応であると考えています*3


しかし、この件には難しいポイントが1つあります。
著作権法は第50条で「この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない」と定めています。
このため、無許諾・無料での上演が認められる場合でも、同一性保持権*4などの著作者人格権は保障されることになります。
これは、高校演劇での既成脚本上演にあたっては難しい課題になります。


では、Oさんから2011年1月2日にいただいたコメントを転載します。

 同一性の問題から論じます。厳密に言うと、ト書きの指摘、台詞の「てにをは」句読点にいたるまで、原作通りやることは不可能です。また、無料上演には作者の許諾がいらないというのはごく最近改正されたもので、戯曲の同一性の面からみても、今申し上げたとおり矛盾があります。また、上演に関わる道具や衣装、また、照明機材、音響機材など、高校生の上演だからということで無料になることなどありえませんね。その上演の一番根幹に関わる作品が無断で上演していい。無料で上演していいということには疑問を感じます。劇作家は同一性で対抗せざるをえません。たしかに法的には作者の許可無く上演できますが、ならば、同時に保証されている同一性の保持を守るため、われわれ劇作家は、同一性が保持されていることを確認する権利を持っております。わたしは無断上演をされた場合、かならず上演記録。台本ではなく、ビデオまたはDVDの提出を求めています。なにか言いがかりのように思われるかもしれませんが、著作権を護る最後の手段だと、心苦しいのですがそうさせていただいております。問題は今の著作権法にあります。大袈裟に言うと、作者は命を削って本を書いております。ご理解いただければ幸いです。*5


たしかに「ト書きの指摘、台詞の『てにをは』句読点にいたるまで、原作通りやることは不可能です」。
ネット上を徘徊していると、同一性保持権を強く主張する作家さんからもこういった指摘があります。
そして、私もそう思います。
プロの役者さんでも台詞を間違えたりかんだりすることはそう珍しくもないのですから。


しかし、だからこそ私は、Oさんと違って、ご指摘にはそもそも法律的に意味がないと考えます。
そんなこと言ったら著作権法第38条1項は完全に意味をなしませんから。


ついでに、あえてややこしいことを考えてみましょう。

ご指摘のように、脚本を上演する際、そもそも「原作通りやることは不可能」なのであれば、そのことはかえって私の主張にとって有利です。
なぜなら、同一性保持権を定めた著作権法第20条は、その第2項で「前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない」としたうえで、その第4号で「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」を挙げているからです。
誰も「原作通りやることは不可能」なんですよ。
だとしたら、精一杯脚本に忠実に上演しようと努力したが、結果として「てにをは」を間違ってしまったこと、「ト書きの指摘」に忠実でなかったことは、「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」と考えるべきでしょう。


「無料上演には作者の許諾がいらないというのはごく最近改正されたもの」だという指摘ですが・・・。
現行の著作権法ができたのは昭和45年改正ですから、ざっと40年前です。申し訳ありませんが、40年前は最近ではありません。

そして、私は、著作権法に矛盾があるとは考えません。
しかし、仮に矛盾があったとしても、第38条第1項は、制定後約40年間基本的に変わっていないわけで、であれば、第50条との関連で一見矛盾した法律の内容をどのように解釈すれば全体の整合性が保たれるのかを考えるべきではないでしょうか。
この辺の考え方は法学を学んだことのない方には伝わりにくいところだとは思います。


つぎにいきましょう。
「上演に関わる道具や衣装、また、照明機材、音響機材など、高校生の上演だからということで無料になることなどありえませんね。その上演の一番根幹に関わる作品が無断で上演していい。無料で上演していいということには疑問を感じます」という部分です。


Oさんへの非礼を承知であえて言わせていただきます。
「このレベルの理解で著作権法について語ってもらいたくない」というのが本心です。

言い換えます。
Oさんをはじめ「作者は命を削って本を書いて」らっしゃいます。
ですから、「ト書きの指摘」や「てにをは」をないがしろにされては困るでしょう。
しかし、著作権法の権利制限やフェアユースのあり方について考えている多くの人々も、権利者側と同じように命を削って著作権法と関わっているのです。
権利者の方も少しは著作権法の勉強をして、なぜ権利制限規定が必要なのか考えてみてください*6

すいません、興奮しすぎました。
でもおそらくOさんも、これ以上にお怒りなんでしょうね。


先を急ぎましょう。
「わたしは無断上演をされた場合、かならず上演記録。台本ではなく、ビデオまたはDVDの提出を求めています」という部分です。


もし私が、Oさんからそのようなご連絡をいただいたとしたらこうお答えします。
「ビデオをDVDも撮っていないので提出できません」。
だって、撮れないです。
著作権法第2条第1項第15号イです。
「脚本その他これに類する演劇用の著作物 当該著作物の上演、放送又は有線放送を録音し、又は録画すること」は複製に含まれるとされているのです。
非営利・無料・無報酬での上演といえども、複製権に関する権利制限規定の適用はありません。
ですから、いくら私でも無許諾・無料での複製(=ビデオ撮影)はできません。


そして、コメントを読んでいて失礼ながら一番気になったのは、Oさんは同一性を保持したいのか、それともただ単に上演料がほしいのかどっちなんだろうかってことです。

そういうことなら私からこれだけは言えます。
著作権法第50条があるので、Oさんの同一性は保持できます。
大丈夫ですから、どうかご心配なく。
しかし、第38条第1項があるので、同一性保持権に十分に配慮した非営利・無料・無報酬の上演に対して、同一性保持権をたてに上演料を取るというのはやめたほうがいいと思います。


Oさんからのもう1つのコメントについては改めて書きますね。
ではまた。

*1:http://www.nodamap.com/site/news/2011/03/206

*2:著作権法第38条1項 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

*3:上演許可がなければ、高校演劇部は大会で既成脚本を上演することが許されません! 詳しくは、私の書いた以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101122http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101127http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101129。全国高等学校演劇協議会の「著作権ガイドライン」は以下のアドレスを参照してください。http://koenkyo.org/chosaku/chosakuindex.html

*4:著作権法第20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

*5:私の2010年11月22日のエントリーに対するコメント。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101122

*6:ぜひ私の書いた以下のエントリーを参照してください。我ながら結構よく書けてると思います。これを読んでわからなかったら言ってください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080918http://d.hatena.ne.jp/chigau/20080923

高林龍先生の著書が著作権制限に熱い件 −高林龍『標準 著作権法』を読む(その1)−


こんにちは。


最近、高林龍先生の『標準 著作権法』(有斐閣、2010年12月)*1が出版されました。


で、とりあえず日本橋丸善で立ち読みしてみたんですが…、私、気がついたらレジに並んでました。
この本、かなり、すごい内容になっています。
まだご覧になっていない方は是非とも手にとってみてください。
本体価格2500円とリーズナブルな価格設定です。


で、今日はそのすごいところを紹介します。
とはいえ、私ことですから、権利制限規定、なかでも、著作権法第38条1項(営利を目的としない上演等についての権利制限)に注目していきます。


さて、まずはいつもの確認からです。
著作権法38条1項により、公表された演劇の脚本は、(1)営利を目的とせず(非営利)、(2)観客から料金を徴収せず(無料)、(3)実演家に報酬を支払わない(無報酬)という3つの条件を満たせば、著作権者に無許諾かつ上演許諾料無料で上演することが認められます*2

しかし、この規定にかかわらず、日本演劇協会はアマチュアによる無料公演に対しても上演料の支払いを要求しています*3
また、全国高等学校演劇協議会は、高校演劇部が各種大会において既成脚本を上演する場合は、日本演劇協会の示す上演料5000円を支払って、著作権者の上演許可を取ることを事実上強制しています(上演許可がなければ、高校演劇部は大会で既成脚本を上演することが許されません!)*4


で、こういう対応が行われる背景は何かといえば、著作権法第50条です。
第50条は、著作権(財産権の部分)が制限される場合であっても、著作者人格権は制限されない旨を定めているのです*5
高校演劇では、おそらく大会運営上の制約から(?)、各校の上演時間が60分以内に制限されています。
すると、高校演劇において(もちろん非営利・無料・無報酬の上演です)、60分以内で上演できるように既成脚本を短縮する改変を行うことが問題となります。
著作者人格権には、著作者の「意に反する改変」を許さない、同一性保持権が含まれているからです。


改めて、全国高等学校演劇協議会が作成した「著作権ガイドライン*6を見ておきましょう。

 高校演劇では、全国大会の上演時間が60分以内と定められているため、各ブロック、県、地区大会でも同様の規則を定めている場合がほとんどです。
 60分以内で上演するためには、脚本をカットしたり一部改変したりする作業が必要になります。また、役者の男女比や人数の問題から、語尾を変えたり、脚本をカットしたりする必要も生じてきます。
 つまり、ほとんどのケースで脚本を改変する場合が多いため、「改変の許可を含めた上演許可を取る必要」が生じるのです。
 そこで、高校演劇の大会では、無料公演であってもきちんと「上演許可」を取ることが独自のルールとして定められてきたのです。


で、ようやく本題です。
高林先生の本を読んでみます。


権利制限がある場合の利用形態に関する箇所です。

著作権法38条に規定する営利を目的としない上演等に際しては、翻案しての利用は許容されていない。
しかし、たとえば長編の演劇を学園祭で上演等する場合における短縮化などは実質的同一性を失うものではなく、新たな創作といえるものでもないから、複製の範囲内と評価することができるだろう。
また、このような短縮化は著作者人格権のうちの同一性保持権の侵害となると解する余地もあるが、やむをえない改変(著作20条2項4号)に該当する場合もあろう。*7


高林先生、神です。
「長編の演劇を学園祭で上演等する場合における短縮化などは」、「複製の範囲内と評価することができるだろう」とくるとは!!
私のようなド素人には想像もできなかった発想です。


参考までに、以前紹介した中山信弘先生の説明も引用しておきましょう。
中山先生は「やむを得ぬ改変」という立場です。

条文上は切除も同一性保持権侵害の一態様として規定されているが、原作を改変しないで一部分を利用したことが明らかなような場合は、4号に準じて同一性保持権侵害とならない場合もありうると考えられる。例えば、学校の学芸会で脚本の一部を上演したような場合、全て同一性保持権侵害と解することには問題があろう。 (中略) 解釈論としては、やむを得ぬ改変と考えるべきであろう。*8


それと、私的には、高林先生の一番スゴイところは、著作権法38条1項についての重要な論点の1つが、同一性保持権との関係にあることをよく分かってるってところです。


ということで、高林先生、最強なのですが、一旦ここまでということで…。
次回に続きます。

*1:http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641144224

*2:著作権法第38条1項 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

*3:詳しくは、私の書いた以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20081001

*4:詳しくは、私の書いた以下のエントリーを参照してください。http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101122http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101127http://d.hatena.ne.jp/chigau/20101129

*5:著作権法第五十条 この款の規定は、著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈してはならない。(筆者注 この款とは著作権法の「第五款 著作権の制限」のことです。)

*6:http://koenkyo.org/chosaku/chosakuindex.html

*7:高林龍『標準 著作権法』(有斐閣)2010年、160ページ。ちなみに、著作権法第20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。 2 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない。 一 第三十三条第一項(同条第四項において準用する場合を含む。)、第三十三条の二第一項又は第三十四条第一項の規定により著作物を利用する場合における用字又は用語の変更その他の改変で、学校教育の目的上やむを得ないと認められるもの 二 建築物の増築、改築、修繕又は模様替えによる改変 三 特定の電子計算機においては利用し得ないプログラムの著作物を当該電子計算機において利用し得るようにするため、又はプログラムの著作物を電子計算機においてより効果的に利用し得るようにするために必要な改変 四 前三号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変

*8:中山信弘著作権法』(有斐閣)2007年、402ページ。

土肥一史「著作権法の権利制限規定の性質」を読む ―土屋俊「演劇研究者のための著作権セミナー」に対する疑問に関連して―


こんにちは。


さきほど、なんとなく、Googleで「演劇 著作権」で検索してみたんです。
で、上位から順番に見ていったところ、5番目に土屋俊先生の「演劇研究者のための著作権セミナー」のPDFファイル*1が・・・(2010年12月13日13時30分・日本時間現在)。
ご存じの方も多いかと思いますが、土屋先生は、哲学や情報倫理の専門家ですが、千葉大学付属図書館の館長を務めていらっしゃったことから、大学図書館著作権の問題にも積極的に関わってこられた方です。
で、何でまた、その土屋先生が演劇研究者のために著作権について語ったのかは、私には知る由もありません。


が、資料を見てみると・・・、気になる記述があるではないですか。
なかでも私がとくに気になったのは、資料の7枚目(「一般的な誤解だと思うこと」)と8枚目(「契約は法律に優先する」)です。


まず7枚目です。
土屋先生によれば・・・。
(1)「権利制限による無許諾の利用は、利用者の権利である(fair useは権利である)」というのは誤解。
(2)というのは、権利制限規定は「既得権(私的複製、引用など)、公益性(図書館、教育、試験、障害など)によって権利者に我慢させているだけ」だから。
(3)したがって、権利制限は、「いつも『限定』と『例外』つき」で、しかも、権利者を「我慢させても補償するのが普通」ですよ。


おっしゃりたいことは分かるんですが、図書館側の人の言葉としてはあまりにも権利者寄りの表現のような・・・。


つぎに8枚目ですが・・・(今日のエントリーの本題はこっちです)。
土屋先生曰く、「契約は法律に優先する」と。
したがって、「許諾をもとめ、交渉を行い、契約を結んで利用が一番安全」だと。
さらに、法律より契約が優先するので、「制限による利用とても、除外・限定・例外を考えれば、権利者の意向を無視できない」んで・・・。
「権利者に聞け!法律家に聞くな!」ということらしいです*2


この説明でいいんでしょうか?


ダメなんじゃないかと・・・*3
だって、「制限による利用とても、除外・限定・例外を考えれば、権利者の意向を無視できない」から「権利者に聞け!」ってことになるなら、著作権法の権利制限規定は完全に空文になってしまいます。
この発想って、私が気にしている、全国高等学校演劇協議会*4と瓜二つです。


「法律家に聞くな!」といわれてしまうと、もうどうにも話のしようがないのですが、ともかくへこたれずにがんばってみましょう。


まず、土屋先生は、資料の3枚目で、講演の立場を次のように示しています。
「あくまで『素人』」として、「法律の『解釈』ではな」く、「実際に権利者と話し合ってきた」経験に基づいた講演だと。
法律家による法の「解釈は可能性の議論」であって、「現実的問題の方がより重要」で、もっというと「現実的問題の現実的解決がさらに重要」なんだよと。
しかも、「法律家は実は現実的問題をしらないかもしれない」よと・・・
だから、利用者は権利者と話し合って、契約するが基本だということのようです。


で、私思うんですが、それこそ、現実問題として考えると・・・、ベルヌ条約とか著作権法とかがなかったら、そもそも著作権なんて権利は認められてないわけで・・・。
ですから、いくらなんでも、法の解釈を全否定するところから、著作権を語られちゃうとナンセンスだと思うんです。
それに、契約、契約って言っても、もし当事者同士が揉めて揉めて結局裁判になったら、弁護士(=専門家)を立てて争って、最終的には裁判官(=専門家)が判断するわけですしね。
そういう意味で、当事者同士が交渉して契約する際に、法律の専門家の援助は必要だと思うのですけど・・・。
しかも、土屋先生曰く「権利者もよくわかっていない」状況らしいので、だったら、いくら当事者同士で話し合っても、それはそれでダメなんじゃないかと思うんですが・・・。


とか考えてたら、著作権情報センター附属著作権研究所の研究叢書No.12『著作権法の権利制限規定をめぐる諸問題』(2004年3月)の第2章、土肥一史先生の「著作権法の権利制限規定の性質」をみつけました。
かなり参考になるので、以下、私的に重要そうなところをメモしていきます*5


(1)まず、著作権著作権法の関係

著作権は、(中略)、著作権法によって認められた特殊の「物権類似の権利」であると説明される。
この見解を前提とすると、民法175条の物権法定主義「物権ハ本法其他ノ法律ニ定ムルモノノ外之ヲ創設スルコトヲ得ス」との関係も考慮することが求められよう。
すなわち、著作権法に規定される以外の権利が認められないことの他に、著作権法中に認められている権利であっても、契約自由の原則の下に、その内容が著作権法で規定されている内容と異なるものとなることは許されないはずでもあろうからである。

確かに。
著作権法に書いてある権利だけが、著作権として認められている権利なんであって、法律に書いてないことを勝手に当事者同士が契約して権利にしてはいけない。


(2)国際条約(TRIPS協定13条*6)との関係


著作権法の権利制限規定の根拠として、TRIPS協定13条のいわゆるスリー・ステップ・テストの規定があると指摘。
TRIPS協定13条は、著作物の通常の利用を妨げず、権利者の正当な利益を不当に害しない、特別な場合に限定された、権利制限規定を認めている。


(3)強行規定任意規定とを区別する基準について

著作権法30条以下の著作権制限規定が、強行法規であるのか、任意規定であるのかについては議論のあるところである。*7

契約の自由に委ねることができない秩序・利益に関する規定であるか否か、が重要な判断基準となる。
その際に重要なことは、それぞれの私法の基本原理の各法域において理想的な具体像を最高の標準とし、当該私法の各規定の任意法規性・強行法規性を決定しなければならないということである。


著作権法が理想とするものは、「著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作権等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与すること」にあるから、これを前提に、各制限規定について当該規定の目的・趣旨を検討し、そこで実現しようとする種々の利益を考慮して、いずれかを決定すべきことになろう。

激しく同意。


(4)文化庁著作権課課長(2002年当時)の見解*8


文化庁著作権課課長(当時)は、一連の権利制限規定を任意規定とみているとの指摘。

この立場においては、特約による権利制限規定のオーバー・ライド問題が現実の問題となることになる。

監督庁の見解がこれでは・・・。
2010年現在の見解は・・・、知りません。
ご存じの方、教えてください。


(5)外国法の例(アメリカの電子情報取引法105条bの規定)

「ある条項が基本的公序に反する場合には、個々の事案においてその条項を強制しないという基本的公序の要請が、契約の条項を強制する利益を明らかに上回る限度において、裁判所は契約の強制を制限できる」

基本的公序が著作権者の利益を制限して実現しようとする利益と、著作権者が制限されることになる利益とを比較考量しようっていう、分かりやすい論理かと。


(6)強行規定任意規定かを判断する具体的な根拠について


(a)著作物の種類、特質

純粋芸術的な著作物か、産業上利用される著作物か否か、さらにアナログ著作物か、デジタル著作物か、は判断の目安となる。
著作物の通常の利用が妨げられる程度は、一般に前者は少なく、後者は大きくなるという蓋然性は認められるからである。
したがって、後者については、権利制限規定を特約でオーバー・ライドすることがより認められる、といえそうである。

演劇脚本の上演は前者?


(b)利用行為の特質

複製権か、その他の翻案等の利用権まで及ぶか、その利用行為によって、新たな創作物が生まれないのか、生まれるのか、換言すると、消費的利用行為か、生産的利用行為か、が問題となる。
利用行為が生産的なものであれば、多様な文化的所産の確保を目的とする著作権法の理想像から考えたとき、消費的享楽的な利用行為の場合よりも特約による権利制限規定のオーバー・ライドは許されないことになろう。

高校演劇部の演劇脚本の上演は、新たな創作物を生む、生産的なもの?


(c)公益上の理由から認められる権利制限規定について


土肥先生が権利制限規定を特約で排除できないとしているのはつぎのもの。

表現の自由等精神的自由権に属する利益や国民の知る権利につながる報道の自由を実現するための権利制限規定
・国権の各機関によるそれぞれの国政を実現するという任務を達成するために設けられた権利制限規定
著作権法が理想とする姿(=多様な文化的所産の確保)につながる利益、学習の目的による利用行為等の制限規定
・人類文化資源の保存、伝承を目的とする権利制限規定


高校生の演劇は3つ目に該当する?


(d)公共図書館による図書の貸与について


公共図書館による社会公共サービスとしての図書等の貸与について、著作権法38条4項*9の規定を特約によってオーバー・ライドすることは認められないとの見解。
なぜなら「著作権者の利益が損なわれるおそれがあることは確かであるが、社会的弱者の救済という公益性から、当面は著作権者を含めた他の者が広く薄く負担せざるをえないと思われる」からだと。


(e)営利を目的としない上演等(小・中学校でのクラブ活動における無形的利用行為について)

学習のための利用行為であり、次の新たなる創作行為の必然的な前提行為を確保する規定として、強行規定性を認める必要があろう。


以上、メモでした。


で、土屋先生に戻るんですが。


土屋先生がいうように、専門家の見解を無視して、「契約は法律に優先する」から、「許諾をもとめ、交渉を行い、契約を結んで利用が一番安全」なんだよ。
しかも、法律より契約が優先するので、「制限による利用とても、除外・限定・例外を考えれば、権利者の意向を無視できない」から、「法律家に聞くな!」、「権利者に聞け!」となったとき、何が起きるのかもっと考えてみてほしいと思うのです。


著作権という権利の根本を定めた著作権法が理想とするものは何か。
それは、「著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること」(著作権法第1条)です。
「著作者等の権利の保護」だけでなく、「公正な利用に留意しつつ」、「文化の発展に寄与すること」も著作権法の求めていることなのです。


で、このエントリーを書きながらずーっと考えてたんですが・・・。
おそらく、土屋先生や全国高等学校演劇協議会の見解に対する私の違和感の原因は、本当の利用者は一人ひとりの研究者・学生や生徒であって、大学図書館や全国高校演劇協議会ではないってところかなって・・・。


仕方のないことだとは思いますが、権利者と大学図書館が交渉して「権利制限規定はあるんですが、こういう特約ができました」って言われても、本当の利用者である研究者や学生は蚊帳の外です。
同じように、日本演劇協会と全国高等学校演劇協議会が勝手に交渉して(全国高校演劇協議会は交渉したとは一言も言っていませんが・・・)、「権利制限規定はあるんですが、(権利者との交渉の結果?)大会に参加するためには上演許可が必要で上演料は慣例として5000円になっています」って言われても、本当の利用者である演劇部員の生徒は蚊帳の外なのです。

利用者自身が契約の当事者として権利制限規定をオーバー・ライドする特約を結ぶのならまだしも、誰かが利用者を代表して権利者と契約を結ぶ(加盟校にそのような契約を結ぶよう指導する)場合には、その行為の持つ重み、影響の大きさをもっと自覚してもらいたいと思います。

*1:2005年2月25日に早稲田大学演劇博物館の演劇研究センターで行われたセミナーの資料。http://cogsci.l.chiba-u.ac.jp/~tutiya/Talks/022505Waseda_Enpaku_Copyright.pdf。もちろん私はこのセミナーに参加してません。ですから、以下の内容はこの資料のみから読み取れることを検討しています。って、そんなことしていいのか、俺。土屋先生ごめんなさい。

*2:このあたりの表現は土屋先生一流の表現なんだと思うのですが、しかし、大学図書館長を務めた方が専門家(学者も司書もみんな専門家です)をあまりにも否定的にいいすぎるのは、別の問題を生むのではないかと・・・。確かに「契約を結んで利用が一番安全」というのは、実務的にはその通りでしょうが・・・。

*3:ただ、土屋先生がこのようにおっしゃる事情はわかるような気もします。というのも、土屋先生は、千葉大の図書館長として、著作権法31条(図書館等における複製)をめぐって「セルフ式コピー機の問題」と「FAXによるコピーの提供の問題」などに取り組み、権利者側との交渉を進めてこられたからです。この問題についての土屋先生自身によるまとめとしてはさしあたり以下の資料を参照してください。http://cogsci.l.chiba-u.ac.jp/~tutiya/Talks/030403toukaitiku112103.pdfhttp://cogsci.l.chiba-u.ac.jp/~tutiya/Talks/031102NAL_at_Ritsumeikan_on_Copyright_summary.pdf

*4:詳しくは全国高等学校演劇協議会の「著作権ガイドライン」と私の書いたエントリーを参照してください。http://koenkyo.org/chosaku/chosakuindex.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/chigau/20101129

*5:今日のテーマに関しては、私の書いた次のエントリーも参照してください。「著作権法第38条1項と契約のoverridability」http://d.hatena.ne.jp/chigau/20100907

*6:加盟国は、排他的権利の制限又は例外を著作物の通常の利用を妨げず、かつ、権利者の正当な利益を不当に害しない特別な場合に限定する

*7:なお、強行法規とは「当事者の意思の如何に係わらず、その適用が強行される規定をいい、契約をもってしても、規定の内容と別段の定めをすることが許されない規定」をいい、任意規定とは「当事者の意思が欲するときは、その適用が除外され、適用強要されない規定」をいいます。

*8:岡本薫「新しい時代における著作権の課題(妙)」(コピライト2002年3月)からの引用

*9:公表された著作物(映画の著作物を除く。)は、営利を目的とせず、かつ、その複製物の貸与を受ける者から料金を受けない場合には、その複製物(映画の著作物において複製されている著作物にあつては、当該映画の著作物の複製物を除く。)の貸与により公衆に提供することができる。

斉藤博「新著作権法と人格権の保護」を読む


こんにちは。


私は、ここしばらく、全国高等学校演劇協議会の「著作権ガイドライン*1のことを取り上げてきました。
が、こんなことばっかり書いていると、その世界の方からはイチャモンつけてるみたいに思われてるんじゃないかと、結構ヒヤヒヤしています。


そこで、今日のエントリーでは、高校演劇と上演許可について考える地道な作業を進めてみたいと思います。


なお、現在、私のおもな関心は、高校演劇における上演許可について、著作者人格権(とくに同一性保持権)*2との関係をどう考えるかにあります*3


さて、今日読むのは、斉藤博先生の論文「新著作権法と人格権の保護」*4です。
古い論文ですが、著作者人格権の基本的な事柄について知るうえで、有益な部分もあります。
なお、表題にある「新著作権法」というのは、1970(昭和45)年に成立した現行の著作権法のことです。


同一性保持権に関する記述で目を引くのは、同一性保持権の例外規定に関する部分です。
斉藤先生は、同一性保持権の例外規定について、最も問題となるものとして、「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」*5を挙げ、この規定の問題について次のように述べています。

新法に見られるような例外規定は、その気になれば、相当多くの意味内容を含みうるものである。


(中略)


たしかに、同小委員会*6での政府委員の説明では、20条2項3号の内容を比較的に限定的に考えようとしていることが理解できるとしても、かような歴史的立法者の意図がいつまでも妥当し続けるわけではないのである。
ひとたび制定さられた法はひとり歩きを始めるのである。
例外として規定されたものがいつの間にか原則的な規定の位置を占めることにならないとも限らないのである。


(中略)


これも、著作物の利用面にウェイトを置きすぎた規定といわざるをえないのである。


フェアユースが論じられることが多くなった)現代の私たちの視点から、この部分を読み直してみると、まさに、「かような歴史的立法者の意図がいつまでも妥当し続けるわけではない」、そういう時期が今まさにきているのではないかと思われます。


ですから、現在、(高校)演劇の世界において、いかなる場合であっても脚本の改変について、著作者の権利が制限されることはないかのように語られているのは、時代遅れになりつつあるのではないかと思うのです。

*1:http://koenkyo.org/chosaku/chosakuindex.html

*2:著作権法第20条第1項 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

*3:2010年8月以降の私のエントリーを参照してください。とりわけ、根本的な問題関心については、http://d.hatena.ne.jp/chigau/20100818を参照してください。

*4:著作権研究』第4号(1971年)所収。この論文において、斉藤先生は、著作者人格権を重視する立場をとっています。

*5:著作権法第20条第2項第4号。ただし、論文発表当時は著作権法第20条第2項第3号。

*6:第63回国会衆議院文教委員会著作権法案審査小委員会を指す。